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特集記事 私のインターンシップ(4) (2004/04)


インターナショナル・インターンシップ・プログラムス

東京事務所 所長 池田 吉和

今回は、肝心の費用をいかに捻り出したかを中心に米国到着後の話を進めます。池田君もやはり4年間働いた貯金をパタパタ叩いても、当時のお金で40万円に欠ける位が自分の持ち金すべてでした。他には何の準備もなく自分が払えたのはアメリカまでの航空券がやっとでした。両親はあきらめてはいても協力的でしたが、経済的に完全に寄りかかるのは、少しはあった自分の誇りが許しませんでした。そうは言っても無いものは無いし、毎日考えあぐねて、失恋はしてるし、希望はあっても悲観的希望で友達と飲んでばかりで、事態の改善は遅々として進むどころか悪化するばかりでした。皆さんも考えることです。そこで妙案が浮かびました。池田債を発行したのです。池田君の信用で友人知己一人当たり10万円無利子で、池田君の信用で買って貰ったのです。無論、将来、大いなる利回りで償還される約束債券です。15人位から150万円程、集めました。日本政府もその2年前、戦後初めての長期国債を発行していたのです。結局、どっちが信用があったかですが、驚くなかれ、池田君は帰国後、2〜5年で全額償還し、日本政府よりも信用があることが全員から証明されたのでした。利子も形は様々でしたが付けました。

一年余りの滞在総経費は当時の金で300万円を超えたかと思います。大きな出費の一つは必需品としての自動車購入と免許取得も含めて、車に関わる経費でした。中古車を新聞広告で探し、車のことは全く分からないのに買ってしまい、今思えば楽しい経験でした。結局17〜18歳の高校生が処分したかった12年以上前の7000cc GMのポンティアック・ボンネヴィルという車でした。車が大きかった当時のアメリカでも大型(gas guzzler)でした。値段は当時で400ドルでした。

その前に、免許を取るのも一苦労でした。日本でも経験がありませんでしたから、全く何も知らず、その土地に知り合いも無く、電話帳で学校に電話し、コロンビア人のインストラクターにほとんどスペイン語で "セレラ、セレラ" 等と言われながら必死で習いました。車を買ったもののタイヤは全部別のメーカーの様で、恐い思いもしました。エンジンが割れていて、ものの5分も走ると座席の下からオイルが焼けて、いつも紫色の煙が出てきました。運転席の窓は閉まらず、雨の時は不自由しました。皆さんも経験があるでしょうが、初めての車は特別でした。皆さんも日本で免許が無ければ、取りやすい外国で取ることを勧めます。事故の保障は出来ませんが。

皆さんの中には池田君は、どのように住居を見知らぬ土地で見つけたのか疑問に思う人もいるでしょうから、少し書きます。新聞の広告欄を利用しました。新しく出来た知り合いに頼むことも出来ましたが、情報量が限られているので結局は地元紙に頼ることになりました。日本は未だに戦争中の影響での新聞統合でローカル紙は一県に一つか、関東・関西等はほとんどありませんが、外国は地元のニュース中心で、小さな小さな父ちゃん母ちゃん的な日刊でも一万部も発行していない新聞社が堂々と長年、営業しています。その中の一つを利用したのです。電話で良さそうな所を片っ端からかけまくり、それも面白い体験でした。まだ車が無いので、それぞれ現地まで見に行くのは容易ではありませんでしたが、その後の行動のための土地勘、社会勉強にも大いに役立ちました。真剣勝負の言葉のやりとりも、嫌でも少しは上手くなりました。

池田君の考えでは、語学を習う人は、いつまでも上手くなりません。上手くなるには、習わないで慣れることでしょう。そして嫌な思いをどの位したのかでは? 外国からの移民の多い土地柄(マンハッタンから45分位)では全く特別扱いはありません。かえって警戒されるのが常でしょう。東京以上に、ある意味では外国人というか、弱者には厳しい国では?

(次号につづく)