私はちょっとした有名人
木村 映子さん
スペイン
いつ頃からかは定かではないが、一度は外国で暮らしてみたいと思っていた。それまでも数多くの海外旅行やミニ留学は経験してそれなりに楽しんではいたが、何か充たされない感じがあった。いつか一つの国にじっくりと滞在して、その国の人々と同じように生活してみたいという思いは募るものの、煩雑な日々に流され、手立てもなく過ごしていたある日IIPの事を知った。これだ!と閃き、又、10年前から勉強していたスペイン語を試すチャンスでもあるとすぐに試験を受けた。そして合格してからは、思いきって会社を辞め、準備万端いざ出発という時に査証がおりず、半年間も遅れてしまった。
満を持して派遣された所は、バルセロナから列車で2時間程の、ピレネー山脈を望む、風光明媚な浜辺のリゾート地(コスタ・ブラバ)のロサスであった。ロサスは地図にのっていなかったので多少の不安があったが、海や山の他に街中にローマ時代の遺跡もあり、近くにはダリ美術館のあるフィゲラスや画家憧れの地カダケスがあり、又、フランスまでも一時間で行けるという環境抜群の地だった。
そして学校は、Centro Escolar Empordaという幼稚園から高校まで生徒数約1,000名、教職員数約100名の私立で地元の名門校だった。そこの小学生全員の美術の時間に週20時間、日本文化紹介の授業をするようにカリキュラムが組まれていた。(後には幼稚園児や高校生にも教えた。)
ロサスはカタルーニャ地方なので、授業はカタラン語(公用語)で、私のスペイン語(カステジャーノ)を担任の先生がカタランに訳していくという事に最初は戸惑ったが、フランス語のようなカタラン語にも徐々に慣れていき、スペイン語は一つではないと再認識した次第である。
始めは折り紙の授業で、新聞紙でカブトを作ってみせたら、校長先生が手が汚れるし、きれいでない(?!)という事で、すぐに立派な紙を注文してくださり、カラフルなカブトになったのには、さすが、ダリ、ミロ、ピカソのお国柄、美意識が高いと感心した。
授業としては、折り紙の他に簡単な日本語の挨拶やひらがなとカタカナで自分の名前を書くのを教えたり、割り箸を使った「ハシの使い方」や着物を着ていき、子供用の浴衣の着付けをしてあげたり、ラジオ体操をやったりと学年やすすみ具合に合わせていろいろと試みたつもりだ。
そんな中で、ちょっとしたきっかけからPTAのお母様方に「生け花」デモンストレーションをする事になった。応募者が殺到して何度もやるはめになったが、その準備は結構大変だった。校長先生に剣山と花器が必要だと話すと、高くてもいいから探してきてと言われ、バルセロナにTELしたり、あちこち探し回ってやっと期日までに人数分を何とかそろえた。それでも剣山は中国製でキメが荒く、花器はハデな物ばかりなので、食器で代用した次第。又、枝物を取りに山歩きをしたり、ついにはゴミ置き場まで探しまくったりもした。そんな苦労の甲斐があって、「生け花デモンストレーション」は大好評で地元のTV局も取材撮影にきて放送され、校長先生は良い学校の宣伝になったとご満悦だった。              
しばらくすると、小さな町で私の噂は広まり、ちょっとした有名人となった。そして、近隣の2〜3の学校からも教えて欲しいとのオファーがあり、出張授業をしたり3番目のファミリアの小さな村の講演依頼を受けて、村人50人位に日本文化紹介公演をする機会にも恵まれ、活動の幅が広がっていった。
自分の授業以外にも、学校行事(X'masや踊りの会)の手伝いやサポート、遠足や美術館見学の引率等は私自身も楽しんでやれた事である。学校に関しては、次々と枚挙にいとまがない程、今でも鮮やかに思い浮かぶのは、私にとってこの期間は何物にも換えがたい貴重な体験だったからだ。又、ステイした3件のファミリアも、若夫婦と中年夫婦、そして夫婦共小学校の教師に2人の子供の家族とそれぞれ個性的でステキな家族にお世話になり、印象深いものがある。
派遣先がスペインでも経済活動の盛んな地域であり、街も学校も家庭も良い意味での安定した経済状況が根底にある分、快適に過ごせた事は否めない。後に各国へ行ったIIPの仲間達との情報交換等しても、私の行った所はかなり恵まれていたと痛感している。
出発前は言葉が一番心配だったが、三ヶ月目位から気にならなくなり、(開き直った事もあり)、それよりも今までの会社勤めの経験や若い頃に習っていたお茶やお花の知識をフル動員して物事に一生懸命取り組めば通じていくのが実感できた事が大きな収穫だった。インターン活動をしていくのに言葉も大事だが、何事にも対応できるように自分の引き出しに日頃いろいろと詰めておく事が実際は役に立つのである。
1999年6月、いよいよインターン最後の月となった。先生達は学年末の授業や成績表作成に一年中で一番多忙な月だ。反対に私の方はもうほとんど出番がなくなってもうこの学校を去らなければならない現実に滅入っていたが、これではダメだと思い、お世話になった小学校の先生方を招待して日本食パーティーを開いた。手持ちの材料でちらし寿司、太巻き、ワカメと子海老の酢の物、インゲンのおひたし、そしてカレーにはトーストを添えて20人分位汗だくで作り、感謝の気持ちとした。するとみんな興味津々で、おいしいおいしいと全部平らげてくれてとても嬉しかった。
そして最後の日、6月22日、先生方の打ち上げパーティーという事で、総勢100名がホテルに集合。和気あいあいと食事がすすむ中、突然私の名が呼ばれ、椅子の上に立たされた。校長の挨拶があり、大きなバラの花束と先生方の一言とサインの入ったロサスの写真集を送られた。私はもう目の前がボーっとしてしまい、到着からこれまでが次々と浮かんできて涙が止まらなくなっていた。一言には「又、帰ってきてね」や「いつでも戻ってきて」というのが多かった。そうだ、私はいつか又ここに帰ってくるんだ!と強く思った。
こうして私のインターン生活は幕を降ろしたのだ。その後、バルセロナに3カ月程滞在して、大学のサマーコースに通い、サッカー観戦に闘牛観戦、各地のお祭見物に国内旅行と思う存分スペインを満喫して帰国の途についた。とても有意義で素晴らしい一年間であった。(Un ano de amor)
そして帰国してから5年になろうとしている現在、私は日本語教師として又、外国の人達に日本を教えるべく、今年の6月にはミラノ(イタリア)へ行く予定である。