稔りの時から今へ
吉村 隆さん
ドイツ
人生に一度キラリと輝く時が訪れるとしたら、私のドイツ滞在生活がまさにその時だったろうと思う。
今も私は自分にそういう稔りの時があったことを思い返し、当時を反芻している。しかもその素晴らしい体験が、その時よい思い出を作ったというに留まらず、今に至るまで余韻を残し、しかもそこで得た人とのつながりが今も継続しているのだから、この外国生活体験は私の人生に「輝きの時」を与えてくれたと思っている。
振り返ると、それまで短期ではあったが日本語教師の経験を持つ私が、いつか「外国」で、現地の人達との生活の中で日本語や日本の文化を教えたいと考えていたのは当然のことだが、そうした自分にとって、IIPからの「民間大使として日本のことを外国の人に伝えてみませんか」という呼びかけは正に「渡りに舟」で、私にとっては外国生活体験の嬉しい契機となった。そういう流れに乗って、語学力にいささか不安を抱えている身ではあったが、ドイツのヒルデスハイムという街に派遣されることになり、そこで三ヶ月を過ごしてきたのだ。
自分にとっての人生の収穫を「良き人との出会い」に置いている私には、その町でどういう人とのふれあいがあるかがカギとなる。
私の触れ合った人達ご思い浮かべてみる・・・。またとなく明るく家庭を作り、料理を得意として日々の食卓を楽しませてくれたホームステイ先の奥さん(私の派遣先の小学校の教頭先生)。この上なく気遣いがあり、私のために語学のチェックや休日毎のドライブをしてくれたご主人。また学校では、私を迎えたことを喜び、企画性豊かに私に日本紹介の機会を作ってくださった校長先生。私を授業に誘っては生徒を日本に親しませ、その子らと遊ばせてくれた先生達。私を取り囲んで離れず、「ヘル・ヨシムラ!僕たちの教室に来てよ!」といつも甘えていた生徒達・・・。加えて、ひとりの先生のご主人からの散策と食事のご招待や町の合唱団の方達からの練習へのお誘いなどで、私のその町での生活は、その町の人の中に溶け込みながら、実に変化のある、彩り豊かなものであった。
総じて、なんと明るくフロイントリッヒ(友好的な)人達に私は囲まれていたことか。こういう人達に囲まれて過ごした日々が明るくないはずはなかった。
当時私は「研修」というには齢を重ねた六十五才であったが、それまで味わって来た生活の日々とははっきり趣を異にする経験を重ねながら、外国にいて違和感なくこれほどの楽しい時が味わわれることを、何度も「僥倖だ」と思っていたものだ。「人との交流の中でお互いの笑顔の絶えない日々であった」と言ったら、それが私の外国生活の雰囲気を表すことになるかもしれない。実に「ぬくもり」にあふれた日々であった。
町はドイツ北部にある人口10万人の小都市。教会の町として知られる美しい古都で、誘われてのサイクリングやジョギングでもその町の趣を堪能することができた。
私の当然の任務であった「学校での仕事」は、残念ながら私の語学力の限界で、万全であったとは振り返れないが、その町に初めて来たというただひとりの日本人に対する関心と温かい引き立てで、先生方からも生徒達からも望外の歓迎を受け、学校では不安も不便をも感じることなく過ごされたと思っている。
その学校は18ヶ国からの児童を迎えており、併せて障害を持つ児童の学級をも含むという特殊な小学校であったが、総じて自由な雰囲気のある企画性の豊かな学校で、私を迎えての特殊な授業や行事が私も楽しませた。
特記すべきは、この日本人を迎えたことを契機にプログラムされた「日本を体験するプロジェクト週間」であったろう。日本的なことの16ものテーマの元に、1週間、全校生徒が日本のことを体験しようという企画であった。「下駄を作って歩いてみよう」とか「中庭に日本風の庭を作ろう」「箸を使って日本の料理を食べよう」というテーマまで加えられていて、当の日本人の私を驚かせたりしたものである。このことが地域の新聞にもニュースとして報じられて町の人達の興味・関心を誘ったという流れもある。
何にせよ、変化のある楽しい日々が重ねられていった。
実は、私はこうして流れる日々を日記に留めておいた。実際心を揺すって流れる変化のある日々は、それを忘れるにはいかにも惜しいものであった。ドイツの人の心情と生活様式、また教育のあり方と子供達の自然な姿・・・と、初めて見、聞き体験したことや新しい発見のある度にメモを重ねている内に、いつか何冊ものノートが埋まっていった。
帰国後、私はこの三ヶ月の日記を1冊に縮めて出版することができた。
私の人生の大きなエポックともなったこのドイツ滞在生活を−私が魅力を味わったドイツという国とドイツ人、またドイツの子供達の話題を−心を込めて書いたこの本が、これまでも多く人に読んでいただき共感を持っていただけたことが嬉しい。
私がこの町を訪れたのは5年前のことだが、つい一年前、「ドイツのクリスマスを楽しみにおいでなさい」という誘いを受け、この自著をみやげに持って再びその町を訪れてきた。私の再訪を喜ぶ懐かしい人達と、ドイツのクリスマスと正月を初体験しながら、私は三週間の楽しい日を過ごしてきた。故郷に帰ったようにくつろいで過ごせた日々であった。新しい知人の輪も広がった。
私の再訪とこの町での生活を書いた出版日記のことが、また地方の新聞に取りあげられたりもした。
さて、自らが大きな収穫を得ながら、自分はその町に何を置いてこられたのだろう。
今も、私が教室に入る度に歓声を上げて迎えて「日本人」と接することを喜んでくれた子供達を思い出す。私はこの子供達(18ヶ国の子供達)に、滞在中の学校活動を通してあるがままの「日本人」を見せ、「日本の文化」の一端を紹介出来たと思い返している。そしてそこにはっきり「日本という芽」を植えつけてきたように思っている。あの子供達が私と過ごした楽しい日々を思い浮かべる時があるとしたら、その「芽」が国際理解・国際交流というものの土台になるのではないかと、ひそかに期待しているところである。こうして一人の日本人が訪れたことがその町の人達に日本理解へ刺激を与え、もしそのことでそれらの人達に生活の彩りを与えられたとしたら(そう思い込んでいるのだが)、それは私の望外の喜びであり、この日本人の訪問の意義を確かめられることになる。
インターンシップ・プログラムスにひとつのきっかけをいただいて始まった私の外国滞在生活体験・・。私の人生に、個人としての見聞を広げる機会をいただいただけでなく、外国の人との交流という得がたい機会をいただいたという意味でも、このきっかけを作ってくださったIIPに私の感謝の気持ちはいつも向いている。
もう年令を高くしてしまった私(現在70才)だが、健康でいられる間は幾度もあの町を訪れて一層深い交流を楽しみたいと考えている。今年(2004年)また「私達の結婚25周年のお祝いの会があるのであるので、是非来て下さい」と、あのホームステイをした家の夫婦から誘いがあった。あの町を初めて訪れた日「あなたは今日から私達の家族よ」と言ってくれたその言葉のままに、こうして声を掛けてくれる気持ちがとても嬉しい。多くのドイツの友人と会うことを楽しみに、当然また訪れるつもりだ。
あの第一次訪問以来怠ることなく続けている語学学習だが、そこでいろいろな話題を広げられるようにと、会話の学習に一層熱がはいっているという現在である。